2020年、12月6日、講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞された吉田千亜さんと片山夏子さんの記念講演会をオンラインで開催しました。吉田千亜さんの「孤塁 双葉郡消防士たちの3.11」(岩波書店)と片山夏子さんの「ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実 9年間の記録」(朝日新聞出版)は、涙なしには読めない記録です。どこにも知らされることなく、過酷な現場で被ばくの危険にさらされながら自らを「特攻隊」に例えつつ被災者救助や事故処理に当たった消防士と原発労働者の生の記録。吉田さんと片山さんの長期にわたる粘り強い聞き取り作業がなければ、私たちが知ることのできなかった真実が目の前に繰り広げられました。

司会の福島みずほさんの「この労作なくして、この真実は表に出てこなかった」という言葉と共に、講演会は始まりました。

片山夏子さんのお話

本は東京新聞で続けてきた原発作業員の日常や思いを綴った「ふくしま作業員日誌」という連載を軸に、福島第一原発作業や原発作業員の9年間を書いた。本を仕上げたきっかけは、昨年、咽頭がんと診断されたこと。「最悪しゃべれなくなる」と言われ、記者ができなくなるかもしれないと思い、自分でも驚くほど落ち込んだ。がんになって「死」を考えたこともあり、死んでしまう前にきちんと福島第一原発であったこと、原発作業員の人たちの9年間の苦闘を伝えたいと思った。幸いがんはきれいに切除され、すっかり元気になった後、猛スピードで本をまとめた。

本では原発事故が起きた時、そこにいた人や家族に何が起こったかを伝えたいと思った。事故当時に幼い子どもだったり、まだ生まれていなかったりした人たちにも、福島第一原発でどんな事故が起き、今のような安定した状態になるまで、作業員の人たちがどんな闘いをしてきたのか、作業員一人一人の日常や思いを追いながら、この9年間がわかるような本にしたかった。

2011年3月11日、東日本大震災が起きた時は、名古屋社会部に所属していた。翌日、「原発が危ない」と東京に行くように言われ、経済産業省の記者室に着いて最初に見たのが、1号機の水素爆発のテレビ映像だった。記者が騒然とし、一斉に別館にあった原子力安全・保安院に走り出したのに混じって、保安院に行った。この時からいつ始まるかわからない記者会見を会見室で待つ日々が始まった。記者会見では、核燃料の冷却や電源復旧など、作業の進捗状況はわかったが、作業員の様子までは見えてこなかった。刻々と放射線量が上がって来る中、作業員の人たちは大丈夫なのか。どのくらい被ばくしているのか。次の水素爆発が起きたら、生きていられるのか。記者会見を聞きながら、作業員のことが頭の中を巡った。

原発作業員の人たちの取材を始めたのは、東京社会部に異動した2011年8月から。どんな人たちがどんな思いで作業をしているのか。人が見えるようにしたいと思った。当時、作業員の宿泊先が多かった福島県いわき市に向かった。この頃はすでに箝口令が出ていて、「会社にしゃべるなって言われているから」などと断られた。声を掛けた一人に「上司の目があるからね。集団の時は駄目だよ」と教えてもらってからは、街中やパチンコ屋やコンビニなど、一人でいるところで声をかけた。取材の時は居酒屋の個室など人に見られないようにした。何人に声を掛けただろう。記者を何年もやっているのに、声を掛け続けることに疲れて、何時間も道端でぼーっとしたこともあった。記事を書くときも、作業員が特定されないよう細心の注意を払った。その作業が何社のどれほどの作業員が関わったかを確認したり、いろいろな所で話を聞いたりした上で記事にした。

作業員たちは、目の前の作業を何とか遂行しようとして、被ばくを顧みず働いていた。高線量下の作業は人海戦術で行われていた。全面マスクに防護服の重装備での作業は過酷だった。ある作業員は20キロの鉛板を背負い、原子炉建屋内の細い階段を駆け上がった。線量計は鳴りっぱなし、全面マスクをつけた苦しい息の中で「早く終われ、早く終われ」と心の中でつぶやき続けたという。水素爆発した3号機の囲いの作業は、高線量下の作業のため、移動時間を踏まえると作業時間は5分程度。現場までの移動もダッシュ。それも15~17キロの重いタングステンベストを着ての作業だった。ロボット調査など遠隔操作での作業も行われているが、そのロボットを高線量の現場まで持って行くのは作業員。必ず人の手が必要になる。今も溶けた核燃料取り出しに向けての高線量下の作業で、人海戦術が行われている。もちろん過酷な作業の話ばかりではなく、日常の中に笑いやユーモア、温かさを感じるエピソードをたくさん聞いていた。それを聞くのは楽しかった。

9年間、作業員の人たちの話を聴きながら、その人生を追いかけ続けている。ある若い作業員は地元の家から福島第一や第二原発に通いながら、生涯勤めるはずだった会社を、被ばく線量が法の上限に近づいたことで解雇された。被ばく線量で解雇されることを「自分たちは線量だけの存在か」「俺たちは使い捨てだ」と悩み、先の見えない不安や続く避難生活の心労から、ある日鬱になり、働けなくなった時期もあった。それでも「原発に関わってきた責任がある。できる限り福島第一原発の作業を見届けたい」と別の会社で今は福島第一で働いている。「故郷に一日も早く帰れるように」「自分の技術が役に立つなら」。今も福島第一を何とかしようとしている人たちが現場に集まっていている。

福島に赴任して、なんと自然豊かな生活なのかと毎日実感している。原発事故で失われたもので、戻らないものもたくさんある。原発事故ってなんだろうと考え続けている。

吉田千亜さんのお話

2018年10月に、初期被ばくのことを知りたくて双葉郡消防本部を訪れた。そこで、原発事故から2~3年のうちに、係長以上の職員の約半数が鬱による休職を経験したことを知った。自分も被災者なのに家族の無事もわからないままで震災直後の救急救助活動や原発事故対応に追われた。いまなお、家族とともに福島県の中通りやいわき市などに避難をしたままの人がほとんどだ。中には、家族を東京や北海道に母子で避難させている人もおり、「家族との時間を犠牲にしてまでも仕事を続けるべきか、自問自答し続けている」と語る。原発事故にはさまざまな「語りにくさ」があるが、消防士もまた、声を上げにくく、つらさを人に伝えにくい側面があると感じている。組織のルール、「強くなくてはならない」という職業イメージなども、その理由の一端だと思う。

彼らがリスクを負いながら働き続けたことを知ってほしい、消防士たちがもっと守られて欲しかったという思いで本を書いた。事故直後の双葉郡消防士たちの活動をみていく。

2011年3月11日。地震発生から1時間程度で原発で非常事態の警報。「ウソだろう、早すぎる」とある消防士は言った。原発事故訓練の想定は10キロ圏内の避難だったが、実際はそれに止まらず、最終的には40キロを超えて避難指示が出た。消防の本来の役割は、「避難誘導と避難広報」だが、それに止まらなかった。津波の救助活動も行いつつ、避難指示も知らず家に止まっている人を探して避難所に送る。非常時には近隣地域の消防本部から緊急消防援助隊が来る協定を結んでいたが、原発から30キロ圏内には入れないということで、応援は来なかった。それからずっと125人の双葉郡消防士だけで不眠不休の活動が始まった。1日中暗くなっても津波の被災者救助活動を続けていた。この日の夜には3キロ圏内住民に避難指示が出され、3月12日朝には10キロ圏内、夕方には20キロ圏内に避難指示が出た。消防士たちは3月末まで、避難していない住民を迎えに行き、避難所に送り続けた。それほど避難指示が届いていない住民がいたのだ。

3月12日。昼、救急搬送の要請でイチエフに行った消防士は、30分で100マイクロ・シーベルトの被ばく。そこで1号機の異常を知る。双葉郡消防本部(浪江・富岡・楢葉)は閉鎖になり、葛尾分署に移動。通常は数人の収容人数のところに90人以上が入り、休む場所もない。大きなボンベの上で寝ていた人もいた。

3月13日。原発への注水のために消防の給水車を出して欲しいとの要請が来る。消防の訓練にはない活動だ。原発がいつ爆発するかわからない現場に行く。到着してみると、東電のタンク車が来ていて、消防のタンク車は不要だった。また、操作手順をその場で説明するなど、無用な被ばくを強いられた。情報は消防本部には全く伝わってこなかった。

3月14日。3号機爆発。何人もの消防士がかなり近くで活動していた。前日には給水のために爆発した3号機の現場にいた。紙一重の命。また、他の消防士たちも住民を避難させるために何度も双葉郡に入った。

3月15日。「さよなら会議」と呼ばれた緊迫した会議が行われた。東電から原子炉の冷却要請が来たのだ。行くか、行かないか。「殺す気なのか」「反対だ」「行かざるをえない」、怒号が飛び交った。何人もの消防士が遺書を書いたと話している。

3月16日。4号機で火災発生。火災となれば消防の仕事だ。火災現場に向かった。全面マスクで防護服の上に防火服、「息をするか窒息するか」二者択一のような苦しさ。出発の景色の中で、「特攻隊はこうだったのだろう」と思ったと、消防士は語る。イチエフの免震重要棟から受けた手書きの連絡メモがある。100ミリシーベルト地点・50ミリシーベルト地点など、緊迫の現場の様子がわかる。ところが後に明らかになった東電のテレビ会議の議事録を見て驚いた。「消防に、入ったら出られないかもわからないことをあらかじめ伝えておく方がいいのではないか」「伝えておく方がいいけど、まあいいでしょう。」などのやりとり。消防士がイチエフ正門に着いた時点で火は消えていて、中に入る必要はなかった。しかしその情報はまったく伝えられなかった。知っていれば、他の対応が取れただろう。
 
この間の消防士の思いはどんなものだったのだろう。

ある人は、自分たちのこのような活動は国や県の記録に残っているのだろうか?と疑問を呈した。消防士個人の記録は最初の1週間は完全には残っていない。安定ヨウ素剤も飲んでいない。安定ヨウ素剤は、消防本部には2~3か月後にまとめて届いたという。消防士たちの被ばく対策はどうなっていたのか。津波による遺体の捜索活動は4月初旬から始まった。双葉郡から住民は避難しているので人は誰もいない。「消防の仕事ってなんなのだろう。「双葉郡」を守るのか、「人」を守るのか」といった葛藤の中で、離職した人や早期退職した人が増えていったという。

この本で一番伝えたかったことは、こういう思いを二度と誰にもさせたくない、人間がコントロールできないものは作ってはいけない、ということだ。その思いも、たくさんの消防士から聞いた。

「あとがき」に泣きながら撮った写真を載せた。2018年の双葉郡消防本部の出初式に行った時の放水のデモンストレーションの写真だ。普段は会議室で話を聞いていたが、実際に、全面マスクに防火服を着た消防士を見て、「あの時、生きて帰れるかと思いながら出動して行ったんだ、生きててよかった」と思うと、涙が止まらなかった。

避難計画というが、「計画」は可能なのか?屋内避難なんて意味がなく非現実的。避難指示が出てもエリアメールを受け取れず防災無線も聞けなかった人は、事故を知らない。さらに、再稼働の要件に避難計画は入っていない。再稼働していいのか。

経験した人の話に勝るものはない、と思う。

お二人の話を聴いて

冒頭、福島さんが述べたように、片山さんと吉田さんがこの本を書いてくださらなかったら、たくさんの真実がわからなかった。お二人に心から感謝したい。2011年12月に政府が早くも事故収束宣言を出していたという事実を忘れていたことに気付き、愕然とした。安倍首相の「アンダーコントロール」だけではなく、もっと前に事故収束宣言が!?

原発事故は終わっていないどころか、汚染水処理も核のゴミ処分も喫緊の、まさに焦眉の課題である。そんな中で再稼働なんてとんでもない。

この本をたくさんの人に読んでもらいたい。